苦しみのセカイの重さとか

このブログは私の為の覚書なので自分本位に書き綴っていますが

今日のは加えて何時にも増して心地よい内容ではないのでどうぞご了承の上お読みください。

 

昨年私は随分と苦しいセカイに居ました。

友人に「よく戻ってこれたね」と迎えられても、まだまだ苦しい中に在りました。

 

自分のすべてを否定しているので「希望」なんて見えてくるわけもなく。

それは3年前に端を発していて、私の流れの必要な一部に過ぎないといえばそうなのだろうけど、ま、つまるところ、すっかりディセンションしてました。

 

各領域は、見方によれば、細かい層に分れてその境目は薄いベールで被われており、

またそのいくつかの層がひとつのグループとして、もうひとつ厚いベールで仕切られている。

この薄いベール内での動きが「落ちた」「上がった」としたら、

厚いベールを突き抜けるのは「アセンション」とか「ディセンション」と定義したとして、

今回の私のは「ディセンション」(あくまでも私用の定義です)

私の波動は粗くざらついた。と感じていた。

 

アセンションに関することをしに来ていてディセンションてどうよ!って、

そのことは私を更に追い込むばかり。

 

人にも言えず。

 

だって、

アセンションの仕事をしにきたのに、自分が至らなさすぎ、そればかりか職場放棄してしまって辛いです」

とか可笑しいし(笑)

自分としても突っ込みどころ満載で。

 ↑「」のように思っている時点で意識が下がりまくっているのが自分でわかるから、恥ずかしくて言えない。恥ずかしいということが既に・・・・と延々と続く(笑)意識が下がるとループするよね。

私の体感では

ハイヤーセルフとの一体化を受け取れ、日々の中で少しずつでも現わせていけるようになっていた以前、

自分が多次元な存在であるということに気づいた以前

 

よりも落ちて行きました。

 

微かに届く私の核の声は

「落ちているのではない。そもそもそういうことではない」「今この瞬間からそこに在ることができる」

とか言ってるけども、

 

「そんなこたわかってるよ、3次元ではこれを落ちてるっていうのよいちいち細かいんだよ、できるならとっくにやってるし、それに自分の胸一つってのもわかってるし、とにかくやりたくない自分に困ってるんだよ」

 

って(笑)

 

それでも、

これまで生きてきた中で最大に「埋もれて」「眠りこけて」「打ち捨てられたい」気持ちにまみれている中のほんの僅かな、

「それは自分の本意ではない」という「灯り」を頼りにふらふらと生きてみる。

そんな毎日でした。

 

とここでふと、

去年以前にも苦しい時はあったけど、それともまた違うなあと感じていたことの理由に気づく。

 

それは苦しみが、私の領域の違うところでそれぞれに起きているんだな、ということ。

 

以前のものの方が、実は奥底から苦しかった。

深いというか広いというか、重なる層の重みに耐えれません、というようなもの。

 

今回は、というと。

何があってもどんなに悶えようが落ち込もうが最後にはブルハの「生まれたからには生きてやる!」な私が

 

「全てがどうでもよ過ぎて今すぐ終わろうよ」な。

4次元的なものまで来ちゃうような?(実際に来てしもたし 笑)ものに覆われて、

これはヤバいぞ!と自覚ありつつも、

「あれれ?でも前のより軽い?」という感覚。

 

状況は以前よりも「現実に関わり」きな臭いのに、現実味が無い、苦しさの重さが違う。

現実味が無いというと、心の分離が進んで感じる「アレ」みたいだけど、それとも違うもの。

 

今から思うに、今回のこれは今世の私の生にフォーカスしたものだったんだろうな、と。

今世の私のだから、現実に即関わる部分で起こるし、重くないし、

一時的にでも、あちらの私を本体として認識して過ごしていた私には、現実味が無かったんだなと。

 

そんなことに気づきました。

 

 

ちょいと区切ります。

 

 

 

 

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巡っていくもの

 

魂の奥底の一番暗い暗い場所には何度も何度も繰り返し光を届けなければ、

こびり付いた物はなかなか剥がれ落ちない。

 

本当に、何度も何度も。

 

その光を届けるのは自分だ。

家族や友人、その他大勢の出演者が手を変え品を変えアプローチし、支えてくれても、

ガイド達が温かい手を差し伸べてくれても、

その光を届け受け取る許可は自分にしか出せない。

 

だから何度も何度も繰り返し、少しずつ光を浴びていく。

 

誰かと比べて、その行程が長く感じることに引け目を感じなくていい。

それだけ、深い場所に潜らなければいけないというだけのこと。

(実際にはその「誰か」というものは存在しないということや、思うところある「誰か」の本当の実情は本人以外にはわかるわけもない、ということを付け加えておく)

 

 

そして自分の闇が深い事を嘆くことはない。

その時が来た、というだけのこと。

 

罪深い自分、

というものは今のあなたや私の前には確かにある、と捉えるにしても

 

自らの神聖さの前には存在しないものだから。

 

 

今日はなんとなく、語りかけてもみましたヨ。

 

 

 

 

 

自分にとって何が重要なのか

 

自分にとって何が重要なのか。

 

その事を思い知ってから、全般落ち着いたわたし。

それはこれまでと同じことなのだけど、どこか「疑問視」「不安」を感じていたから、分りながらも何度も自分で叩き潰そうとしてきた。

ザックリと言えば、

これを痛いほど「思い知る」ためのここのところの状況だったんだろうな。

 

**************

 

 

ここ数年、右側に痛みが出てばかり。

今は右腕の筋を痛めてしまい、なかなかに生活が不自由。

そんな痛みにフォーカスしている時に出てきたものがある。

 

ひとつは、インナーチャイルドの涙。

笛を吹きながら思い切り泣いたよ。

唐突で自分でもびっくりしたけど、あれはいい涙だったなー。

そんな私の周りをガイドたちが優しげに囲んでいたのも印象的だった。

 

あともうひとつ、過去生の自分。

これは凄惨だった。

男性で戦士なのだけど、右腕を落とされたのちに絶命。

複雑な人間関係の中(このパターン多いぞ)自分の妻と実の兄弟を殺めてるんだなあ。

そしてそのすぐあと兄の臣下に打ち取られたんだけど、可哀そうなヤツだった。

彼自身は多くを望んでなかったんだよな。

心が通い合う家族や仲間と楽しく暮らしたかっただけ。

そんな彼に寄り添って消化、昇華したら、彼の光が私の中に還っていった。

あんまり自分の過去生に興味無くて普段は出てこないけど、

タイミングがくればこうやって現れてくる。

 

自分の欠片、自分もやけど、みんな頑張ったなーー。

って心から素直に思えるようになったな。

 

 

 

 

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秋のそら

 

 

こちらに来ていない間も、いろいろあって。

 

 

委ねてみたり、もがいてみたり。

 

どんなに「在る事の孤独」のようなものを感じていても、

目に見えない仲間の手は絶妙なタイミングで届くもので。

 

どうやったって切り離されることが無いことを、繰り返し指し示される。

 

時空を超えた癒しでさえも、

柔らかな手触りのハンカチのようにさり気なく差し出される。

 

こうやって、ひとつひとつそらに還していく。

 

緩めて、覚悟を決めて、微笑んでいく。

 

そんなとこ。

 

 

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懐かしの「情熱」と再会する

 

 

「 体験 」 した事を、美化するでも貶めるでもなく、

そのまま受け入れる事ができてから、

多分、届かなかった奥の方まで光が射して癒しが起こっていった。

 

そうして自分を赦す事ができてほどなく、

懐かしの「 情熱 」が戻ってきた。

やあ、久しぶりだね笑。って。

 

友人が「焼け野原」と形容した私の第1第2チャクラも、大丈夫。

もうあそこには行かない、って決めておこう。

 

もしまた行く事があっても、今度は秒速で駆け上がるよ。

 

絡め取られぬよう、罠に仕掛けた策に自らが落ちるなら、

 

そんなものはもうイラナイ。

 

 

 

 

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