見え方は人それぞれ

 

大昔、何代かにわたりハムスターを飼っていた。

今でもそりゃあもう、ハムスターラブ♡♡♡

 

現在は飼わないことにしているので、人様のハムを見ては溜息をついている。

 

下から、上から、斜めから、

どこから見てもたまらん完璧なかわいさじゃぁないだろうか。

 

まるっこいお尻も、

申し訳なさそうに付いてるしっぽも、

ちんまりした手足も爪も、

目元口元、どこもかしこも「可愛らしさ」に満ち満ちてる。

 

物思いに耽る横顔、

機嫌のいい時の笑顔、

警戒し緊張の走る体、

 

はーーーーーー。

特にゴールデン。いい感じの肉付き♡

 

あとは、ジャンガリアンのパールホワイトがお好みです♡

 

うちの旦那さんにとっては「ただの大嫌いな鼠」なんだけどねー。

 

 

 

 

古からの届けもの

 

人の中でできた傷は

人の中でこそ癒されてゆくものだということを日々実感してるこの頃。

 

大事に持っておく必要もなければ、

投げ捨てるものでもなく、

ただただ、自然に消えていくのを待つ、

でいいのだなぁ、と。

 

 

**************

 

 

 

 

 

この前、ある場所に行ってきた。

 

そこは風光明媚な観光地で、訪れたのは2度め。

 

すると、最初の時と違った感覚がやってきた。

 

 

すごく懐かしい。しっくりと来る。

この地に居たという確信がある。

ずっとずっと昔、恐らく縄文とかそんな頃よりも以前、

此処で自分はある装置を設置した。

来るべき時に作動するように。

調和へとバランスをとっていく装置。

 

 

ではその「来るべき時」とは今なのだろうか?

 

優しい風の中、家族や友人たちと語らいながらも

意識をリンクして行きわかったことは、

 

もうこの装置の役目はほぼ終えている。

けれど、僅かな名残の震えを起こすことが、決して無駄なことではないと。

 

私は私にできることを。

そんなささやかな想いの、この時、らしい。

それなら、私も嬉しいな。

 

そんな事を受け取りつつ、初秋の大地を味わってきたのでした。

 

 

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反転するセカイ

 

たとえば、自分が光の粒子とかになってシュワシュワと解けていき、どっかに転送されて、またどっかでシュワシュワと再結合していく感じ。

 

みたいだなーと感じたのでそのまま暫くそのシュワシュワを味わってみた。

その後、何かが変わったかというと、相変わらずの状態だし、特に何も?だなーと書きながらいっこ思い出した。

 

つい先日、自分がある集合意識の中に居ることを体感。

集合意識と自分とのリンクのキャッチとか、その意味を知る、というようなことはこれまでもあったけど、今回のはその受信角度?解析方法?が違うような感覚。

視る座標点が違うと、私の理解も別の角度でまた深まる。

これが変化だといえばそうかな。

 

そんなことを思いつつ、

やっぱり私は今の自分の状態が気に入らなくて、

そっちが気になって仕様がない気持ちを持て余していたらこんな返答がきた。

 

『調子がいいときもれば悪いときもあるものだよ、と思えばいい』

言うよりも、そもそもいい状態、悪い状態というレッテル貼りが無意味。

ほんっとに無意味だから。

 

 

なんだそうな。念押しされたし(笑)

 

これは、

今の私において「特に」という部分を多く含んだ返答。

 

これらはギミック。

君への仕掛けだよ。

 

だとさ。

 

 

 

そして、タイトルの反転するセカイのこと。

 

 

 

それは何気ない友達との一日の後に起こった。

 

よくある穏やかな午後、気になって仕様がなかった私の状態がぐるっとひっくり返った。

 

ほんのささやかな雑事でも息切れがするほどに敏感になっていた、

これまでに体験したことの無い程に扱い辛くなっていた『私自身』が、

それ以前の私ともまた少し違うバランスの中へと入っていた。

 

衝撃的ではなく、むしろ、テーブルの上のコップを少し右にずらしたくらいのさり気なさで、私のセカイはひっくり返っていた。

 

この「衝撃的」か「さりげない」かの違いは、動画を標準再生で見ているのか、スロー再生かチャプターで飛んで見てるかの違いなだけかもしれないな。

 

チャプターで飛んでれば、それは突然で衝撃的であり、

スロー再生であれば、その変化もつぶさに見ているから、ともすれば気づかない。

 

 

そしてこの「反転」

これはやっぱり仕掛けの効果、だよね?

 

何回仕掛けられても毎回趣向が違うから、なかなか慣れたようで慣れまへんな。

 

 

 

 

 

本質で生きる

 

本質で生きるって、それ以上でも以下でもなく。

 

けど、ただ本質ってだけじゃあと一歩足らないというか、

結局これまでと大差ないのか。

 

自分が多次元的存在であるという実際的感覚を伴う自覚も必要なんやと思う。

 

でもそこのところってパッと聴きでは、妖しい感じもして地に足着いてないやんとか、話がごちゃごちゃになるところで。

 

だけど、本当はとても軸のある話。

 

サイキック的ななんかとか、神さまが降りてくるとか感じるとかの話からは一番遠いところにある。

 

 

ほんとうのこと、なんじゃないかいな、と。

 

そこ無くしては、突破できないよ。

決めて来た人たちよ。

私もやな。

 

 

 

 

秋だねえ

夜中に、涼しくて気持ちいいのでベランダでブログ書こうとしたけども、

あ、そうか、手元が暗くて見えんわ。

 

キャンドルでは足りないし、電気スタンドなぞ使った日にゃあ、

それでなくてもパソコンのライトに照らされている私の顔面は怪しいのに、

上半身ぼんやり光ってるとこなんて、近所の人に見られては気持ち悪さで睡眠妨害をしかねないぞ。

 

てことで、ひとまず室内へ。

 

祭りも終わり、ホッと一息なのだけど、

季節の変わり目か体調が移ろいやすい。

 

早い段階で呼吸に気をつけて整えていけば、しんどくて動けない、なんてことは無くなった。

 

が、やっぱりデリケートになっているので、少し考え事をしたりするだけで、テキメン体に反応が出る。

 

だから、調子づいてきたら「思考」に傾いてしまう「癖」にも要注意ちゅー。

 

とか

 

わかりにくいことをわかりにくいままにやっていきたい自分を否定したくなったときには、

良き理解者となって持ち上げてみたり。とか。

 

マイナーチェンジした自分の扱いは、やりやすくなったところもあれば、まだ慣れないところもある。

 

 

 

そんな風にしながら、交わることの無いタイムラインをとりあえず受け止め、秋の中へと入っていく自分。

 

 

秋だねえ。